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発行人:恒川洋
編集スタッフ:岡部明美 五十部富美子 田島亜矢子 高橋淳子
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vol.12
1996.06 |
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半世紀前まで日本の一般国民は病気をしても医者にかかれず、臨終の際に医師から脈をとってもらうことが人生最期の念願であった。
いつでも、どこでも、誰でも同じような医療を受けられる国民皆保険制度ができてまだ35年である。当時の開業医の多くは保険診療を一種の慈善事菜と誤解し、必要な治療を施すにはかえってマイナス面の多い制限診療だと思い込んだ。これには開業医側の責任ももちろんある。
しかしながら我国の医療が伝統的に患者本位というよりも、医療を提供する側の都合によって運営されてきたということが大きな要素となっていることも事実である。日本の医療費の算定方法は基本的な部分に問題がある。
自由主義経済下にあって公定価格が存在し、病気を治すため必要な医師や看護婦の人件費、技術料等について適正な原価計算もなければ、諾設備の減価償却の調査も一切ない。中医協は医療費を安く抑えることに知恵をしぼるだけだから医療の現実とかけ離れた医療費改定が繰り返される。
確かに1回の受診当りの医療費は欧米諸国に比べてはるかに低額で診察料、再診料、技術料がすごく安い。なぜこんな安い受診料で国民一人当りの年間医療費が高くなるのか? アメリカが5.3回、フランスが5.2回、イギリスが4.O回、スウェーデンが2.7回に対して日本では一人の年間受診回数が21回と異常に多いからである。これは国民皆保険制度の弊害であるかも知れない。
やはり受益者負担は存在して当然であろう。しかしながら国民一人当り総生産で世昇第一位の国が、対GNP7%しか医豪費に使っていない。アメリカは13.5%である。国民の健康と生命を守るための医療費を出し惜んでいると言われても仕方がない。医療のみならず、全ての企業体は何らかの形で社会に貢献していなければそれらは社会に存在する価値を失う。
しかしながら、企業体等は市場経済の中に存在しているが故にその価値は自ずと消費者の判断に委ねられてしまう。従って一般に企業の「生産性」は使用した経営資源に対する「収益」の割合で判断可能である。ところが医療の場合には、特に保険診療においては「生産性」が二重構造をもって存在している。簡単に言えば「算術」と「仁術」と言えるであろう。
医療技術の高度化に伴い、国民医療費は増加の一途をたどりその抑制が望まれている。しかしながら、診療行為の一つひとつは社会貢献度の高いものであり、一人でも多くの人に行うことができる経済的環境をできるだけ少ない経営資源で構築する。
このような「医療の総合生産性」を高めるために結果的に診療報酬が上がったとしても、それは単に医療費の増大をもたらす「算術」ではなく、現在の医療に求められている「仁術」そのものではなかろうか。
戦後、経済大国への道を突走ってきた日本の競争社会はいつの間にか独特の政治風土と金権思想を形成し、それが『弱者切り捨て』、さらには医療問題軽視の風潮にもつながったようにも思われる。その意味では政治家や厚生官僚、医師及び患者達が頭を切り換えない限り医療問題の真の解決はあり得ない。
この行政主導型医療が今回のエイズ問題に限らず現場で様々な問題を提起している。
我国の場合、臓器移植とか、人工受精等、最先端先靖医療の派手な情報はマスコミでよく報じられる反面、最も基本的な医療制度や医療実態についての正しい情報が決定的に不足している。そのため、病人やその家族以外は医療の現場にほとんど無関心であろう。
アメリカの医療現場はストレッチャーで運ばれた病室のベットの枕元に「患者の権利」という15項目の内容の印刷物が置いてあり、日本の場合は病院側の都合ばかりを優先された「患者心得」が渡され、ロクな説明もなしに署名捺印を要求される。また、末期状態のガン患者さんの場合、熟練した主治医なり担当看護婦なりが20分〜30分、ただ横にいて手を握ったり、お話を聞いてあげるだけでもいいというケースは少なくない。だがそれをやってあげるだけの経済的、時間的余裕がないというのが日本の医療現場の現実である。自分の患者さんに対するガン告知は、医者にとってその相手と死ぬまでちゃんとおつき合いするという覚悟なしに告知すれば、患者さんをいたずらに苦しめるだけの結果になりかねない。
この問題を解決する唯一の方法は、ガン告知を声高に論じたり、日本人の意識改革とか、患者の権利とかの難しい議論をするよりも、まず現行の医療制度を根本的に見直し、病院の現実を変えることであろう。
世界一物価の高い東京と地方の小村落とは病室代も食事代も全て同額で、国民宿舎の半額以下である。
これで経営が成り立ったら経済学は不用のはずである。一目で部屋全体の見通しがきく大部屋システムは、個人のブライバシー等を一切無視する代りに、各患者の様子をつかむのに小人数の看護スタッフで可能となる。これはブタの飼育場と同じ発想であって、ブタ同然に扱われる患者の方こそいい迷惑である。しかし、厚生省が決めた保険点数制をバカ正直に守っていたら、病院経営は間違いなく赤字となる。
日本では政治家も財界人も官僚達も医療問題に本気で取り組んで居るようには見えない。それが社会全体の風潮に大きな影を落とし、人間が生きていれば病気をするのが当たり前なのだがこの国の競争社会では病気は常に負の要素として受け止められる。「国民のためのよりよい医療」、つまり医療の質の向上という観点が抜けている。
中央官庁お得意の効率主義だけを優先させていては医療システムの改善などできるわけがない。日本の医療の裏側に隠れた医療行政のムダと怠慢は一般国艮の想像をはるかに超えるものであると言わざるを得ない。
真に「豊かな生活大国」の一つとして医療システムの充実は欠かせないものであると考えるなら、行政、医師、国民はもう一度医療制度そのものを見直す必要があるのではなかろうか。
生老病死という言葉があるように、人間は必ず病気をし、医者の仕事がこの世から消えることはない。
参考文献 高岡善人著 (講談社)
「病院が消えるー苦悩する医者の告白」
連絡先 経営情報センター 052−834−0355
〒468 名古屋市天白区表山1−118
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Q15歳の娘が登校拒否になり、拒食症気昧なので悩んでいます。特にいじめの対象ではないようです。学校からは精神科で診てもらうように指示されましたが、家ではごく普通で精神病とは思えません。どうしたらよいのでしょうか?
A:竹内聡
(星ヶ丘マタニティ病院内科、当振興会理事)
連絡先052-782-6211〒467名古屋市千種区井上町27
摂食障害はここ10年間に急増していますが、病態や治療に関して決して十分な理解がされているとは言えない状況です。個人の生物学的素因、家族機能、それを取り巻く社会的要因が複雑に絡み合って、最終的に摂食障害という形で表れているだけで、その背後に隠れている個々の世界は千差万別です。
古典的には女性性の拒否、成熟拒否など単純化して言われることがありますが、そういった型にはめた考え方は役に立ちません。どんな病気にも言えることですが、症状が出現するのは、その時点でその人に何らかの不都合があるからです。従って、病むことは何か新たなこと、その人に足りないものを学ぶためのインターパルなのだと私は思っています。良い悪いの問題ではありません。
どんなに不可思議な症状であっても意味のないことは起こりません。本人か家族か、誰が一番問題なのかという悪者捜しも意昧はありません。
何かがうまく行かない、そこでその人を取り巻く人たちが知恵を出し合いお互い成長し、その課題を乗り越えていく、それだけ必要なことです。食や体重の間題を抜きにして、もう一度症状を訴えている人を見直してください。
今何が起こっているのか、なぜ今起こったのか、そしてその問題を解決するために自分たちは何ができるのか。専門家の意見を聞くということは、その多くの援助の中の最初の一歩と考えてください。たいていは専門家、病院という範疇の中だけで解決できるものではありませんが、取っ掛かりとしては重要な一歩であると思います。
抽象的なことを最初に述べましたが、食や体重へのこだわりに関しては、いくつかの共通した具体的な関わり方が必要になると思います。
摂食障害への関わり方の難しさは、そういう問題で悩んだことのない人、特に食物がまだ豊かでなかった時代に青年期を送った人の常識的な価値観では、おそらく理解し難いことを理解しなくてはいけないところにあります。いかに受け入れ難いことであっても大人の側が歩み寄って子供の内面を理解する、それが先に生まれた者の務めであると私は思います。
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A:末永蒼生
(ハ一ト&カラー、当振興会顧問)
連絡先03-5474一7810〒150東京都渋谷区神宮前3-38-3フォルム7110
私が開いている「子どものアトリエ」では、学校のぺ一スには合わないけど絵を描いたり工作をしたりすると素晴らしい表現を見せてくれる子どもが時々やってきます。
ところが、そういう時期に無理に学校に行かなきゃという脅迫観念があると、その拒絶反応が心身の拒否反応としてさまざまな形で現れることがあります。
拒食や過食は比較的最初に現れる現象でしょう、言葉で「NO!」と言う代わりに、食べるという生命の基本的な欲求を拒否することで意思表示をしているのでしょう。それが内向的な子どもであれば親や学校の要求を「飲み込む」という過食の姿をとるのかもしれません。
アトリエに来ていたある14歳の女の子で不登校の子どもがいました。描く絵も白黒だけのマンガの写しでした。
感情が閉じ込められている時、色彩表現がなくなる子どもが時にいます。親の期待が大きすぎたのか、受験勉強がとてもプレッシャーになっていたようです。カウンセリングを通じて、親の期待感や生き甲斐を親自身が自分の趣味を楽しむ方向に向けてもらうように話しました。
そして、親も子も1〜2年くらい学校を休んでもいいさというリラックスした気分で人生を眺めるようになっていきました。
不思議なことにその頃から子どもの絵には目の覚めるような豊かな色彩があふれるようになっていきました。
人は感情が抑圧されると食欲のみならず、色彩感覚までが拒絶状態になるのです。色彩の表現は感情が生き生きと回復したことを示していたと思います。
学校に気持ちが向かない時は、理由が何であるにせよ気持ちが内面に向かっているわけですから気になっていることを解消する必要があります。しばらく学校のことを忘れて、家で好きな絵を描くとか音楽を楽しむとか、感情を開放するようなことを楽しんでみるといいでしょう。
いわゆるアートセラピーの効果というものは誰でも活かせるものです。色や音を楽しむと言葉では語れない深い感情が水が流れだすように開放されるからです。
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.五十嵐桂葉 江南女史短期大学教授、当振興会理事
8連絡先0587-55-6165 〒483江南市高屋町大松原172番地)
『食べ物のもう一つの役割』
何故「いただきます」と言って、食事を始めるのでしょうか?
或る仏教系保育園の副園長さんのお誘しです。私の夫が子供にこんな話をしていました。
「食事とは他の生命を無理にいただいているのです。稲も、豚も人間に食べられたいと思って生きているのでしょうか?稲は自然に芽生えて実を結び、その実を落として子供とお話をしたいと考えているのかもしまれせん。命を途中でいただいているのですネ!お釈迦様は無駄な殺傷を戒めているのです」と。
豚はちなみに、人間に一番おいしい時期と考えられた半年後約90kgになった頃、小さい道に一列に並べ、電流を通した熱湯の釜に追い込み屠殺し、その後、枝肉→プロックに分け、最後に食卓のトンカツになっているのです。
以上が、生命と食のかかわりですが、このように残酷な場面の上になりたっているのが食卓であることも意識する瞬間を持って、余分な命を無駄遣いしないことです。
さらにもう一つの話題です。
今から20年ほど前、東海散歩道を友人と歩き、とても疲れたので1〜2区手前のJR駅に向かうことにしました。途中休憩を小笹の茂みの石に腰を下ろそうとして石を見ました。“ここに遊女死す"と印された石でした。l0基ほど肩を寄せ合うように河原の丸い石が2個づつ積んでありました。今も静かに眠っていると思います。
身体を売って家族をささえ、年季明け?にその家族に会いに行く途中だったのでしょうか?
こうして生きて行かねば生きられない1800年あまりの土台の上に、蜜のしたたるような豊かさの30年間があるのです。豊かな恩恵は次代につなぎ得るのでしょうか?
『歴史の遠い責任』を未来の人々への豊かな贈り物を約束するものとなり得るでしょうか?
『治山は山の資源も川の資源もそして海の資源も守る源です。人の呼吸に鮮度の良さをあたえる緑は、健康な命をかぎりなく与えてくれるものでしょう』
歴史の遠い責任は今すでにその上を歩き始め、次代の贈り物を決めています。
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今、社会のあらゆる分野が行き詰まり、閉塞状祝にあることは誰しもが感じていることでしょう、医学と教育の分野においても同様です。ホリスティックという概念が、この両分野で言われはじめたのも、人間存在の本質といのちそのものにかかわる分野だからに他なりません。

ホリスティック教育究会代表の平塚郁恵さんは、その小柄なからだのどこにこれだけのエネルギーが溢れているのかと思えるほど、教育変革への熱い情熱を秘めていらっしゃいます。その情熱は、いじめに代表される現在1の学校教育のあり方に対する怒り。教育の荒廃に対する絶望の奥に秘められた、人間への愛そのものです。
手塚さんは言います。
「ホリスティック教育とは、学校での教育理論や方法というよりも、私たちの生き方、考え方、一人ひとりのあり方そのものなのです。私たちは、もともとホリスティックな存在、つまりすべてのものとつながりあう、分割できない存在なのに、さまざまなつながりを断ち切ってきたのが、これまでの社会でした。バラバラにされた個人が、人や自然とのつながりを失い、孤独感や虚無感を抱きながら、自分を駆り立てるようにして競争という人生ゲームに乗っけられクタクタになっているのです。
私たちは、今再び、ホリスティックな世界観、人間観、つまり、いのちはすべてのものとつながりあっているという見方、考え方を取り戻さないと、自分も、人も、この社会も、地球も救えないという、本当にギリギリのところまで来ているのです」 一般的に、社会変革のリーダーは、自己に向き合うことなく、社会の問題に全エネルギーをそそぎがちです。
しかし、手塚さんは、ホリスティックにかかわるひとたちに最も大切なのは、自分を知ること、自分の内なる真実に気づくことではないかと言います。自分を知ることなしには、どんな理想も、相手を否定し、正しさを主張しあい、対立するという結果になることが多いからでしよう。手塚さんがホリスティック教育というときに、理念や方法だけでなく、まず、生命観・人間観・世界観、そしてそれが生まれてくる自分自身の内的な世界に目を向けようとしている理由がこれでよくわかります。

「学佼や家庭の教育でも、医療や看護の世界でも、こちらでこうだと勝手にきめつけてしまうことがきつとたくさんあるでしょう。癒しや成長のためには、相手の内的なプロセスを共にすることが必要です。
<相手の中では、今、何が起こっているのか?><相手は今,何を体験しているのか?>そこに目を向けるためには、自分自身の中に今、何が起こっているかを意識できていなければなりません。
いのちのつながりの体験、信頼の体験、共感の体験の中で、私たちは、自分自身に気づいていくことができるのですから」手塚さんは、こうおっしゃいます。ですから、ホリスティック教育のセミナーでは、まず、自分がさまざまなとらわれから解放されて、自分の実感を取り戻し、自分で考える知性を育てるところから始まるのです。
ホリスティック教育研究会では、これまで『リジョイス』という50べ一ジほどの季刊誌を出していましたが、今年から『季刊ホリスティック教育』として内容も一新。これは、いままでにないユニークな雑誌になるでしょう。この季刊誌は、教育の分野の方々だけではなく、ホリスティックな医療やエコロジーの分野で活動しておられる方々にもぜひ読んでいただきたいと思います。(岡部)
■連絡先ホリスティク教育研究会0462一76一0137/FAX75-8715
〒242榊奈川県大和市下鶴間3956-18
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前回は、会員の皆様の「健康観」「疾病観」「病院に望むもの」を掲載いたしました。今号では、「医者に望むもの」「看護婦に望むもの」「現代の医療に望むもの」を掲載いたします。
◎医学だけに偏らず、広い視野を持ち、多様な価値観を受け入れる度量の広さをもった医者。
◎ある時は菩薩のような心で接し、ある時は修羅の心で接し(患者を自立させるためには冷たく
突き放すことも必要)、病人を癒せる現代のシャーマンであってほしい。
◎患者にストレスを与えるものの言い方をしないでほしい。
◎医学専門用語を使わす、患者にわかりやすく話をしてくれ、聞き上手で笑顔のいい
お医者さん。
◎相談しているだけで、生きる勇気を与えてくれるお医者さん。
◎いのちに対する尊厳を持っている医師。人を大切にできる医師。
◎一言でいえば、人間味のある医者。
◎生き方の素敵なお医者さん。生き方を教えて<れる人。
◎予後・食事の内容も含め、ライフスタイルの改善についてアドバイスをきちんと
してくれる医者。
◎立場の弱い患者の気持ちが分かる医者。傲慢さのない医者。
◎言葉は暴力にもなるし、人を救うこともできる。言葉の選び方に信頼感を持てる医師。
◎自分を患者の立場においてみた時、「自分のような医者に任せられるか」「この治療方法を
自分も受けるか」と自らに問い、自分を客観的に見つめ、おごらない存在であってほしい。
◎病名をつけ、症状を押さえるだけでなく、病気の原因や再発防止についても
指導できる医師。
◎人間の心の機微のわかる医師。人間の心の苦しみ、悲しみのわかる医師。
◎人間観、人生観、生命観、宇宙観、死生観をきちんと
持っている医師。
◎患者からも看護婦からもたえず学び、人間としてたえず成長
している医師。
◎自分の治療方法だけを押しつけない。患者が本当にどういう
治療方法を望んでいるか、聞く耳を持っている医者。
◎医者らしくない医者。病気を診るのではなく、病んでいる人間を
診れる医者。強圧的で命令的でない医者。
あたたかい手を差しのべてくれ、話をちゃんと聞いてくれる人。
やさしさ、厳しさ、責任感、信頼感がある人。
まごころとやすらきを感じられる人。
患者のこころの動きがわかる人。
人の持つ自然治癒カを本当に信じ、それを応援し、サポートしてくれる人。
患者の持つ生きたいという願いを背後できちんと支えて、励ましてくれる看護婦さん。
明るい笑顔、こまやかな気配り、冷静な判断力。
人間としてのおもいやり,あたたかさ、学び続ける前向きな姿勢。
気楽に話かけられる雰囲気、笑顔のステキな健康美人。
すべてを受け入れてくれる受容性と包容力。
事務的ではなく心を感じさせる人.こわい看護婦さんがときどきいる。
存在だけで人を癒せる人。ヒーラー、シャーマンの資質がある看護婦さん。
専門的な高い技術、サーピス、高い人間性。
やさしい眼差しで、患者に生きる勇気を与えてくれる人。その人がいるだけで
元気が出てくるような人。
看護婦さんは、本当によくやってくれるので、これ以上望んだりしたら申し訳ない。
中には、事務的な人もいるが、誰でも忙しすぎればそうなりま。看護婦さんだって
人間なんだから仕方がない。あまりにも多忙なのではないでしょうか。
自分もリラツクスすることのできる看護婦さんは、人をリラックスさせるのもうまい。
患者の緊張、不安を軽くし、リラックスさせてあげられる看護婦さんは素敵だと思う。
東洋医学と西洋医学が等価に評価され、両医学が統合され、技術とハートで人を癒す医療。
西洋医学は、確かに検査技術はすばらしい。しかし、対症療法でしかなく、原因を除去するような医療の確立を望む。
「気」「癒し」について、もっと理解を深めてほしい。
苦痛の少ない検査法、治寮法をもっと研究してほしい。
西洋医学に本当に欠けているものは何なのかという、真摯で謙虚な反省と学びが必要。
薬に頼りすぎない医療。本当に必要なところに必要な手が届くシステム。
民間療法や保険のきかない丸山ワクチンなど、多くの患者が効果を期待して受けている治療、
効果が上がっている療法などは、ーつでも多く保険の適用を認めてほしい。
本来医寮は儲かるものではなく、構造不況業種なのです。21世紀は、製薬会社、医療器具会社
は現在の3分の2は倒産するでしょう。
心身一如、からだと心はつながっていてまるごと一つという前提に立って、患者に向き合うのが
当たり前の時代が早くやってきてほしい。
西洋医学だけで治せない慢性病がこれだけ増えているのだから、東洋医学にも保険が適用さ
れるような新しい保険のシステムを望みます。
病気を「敵」と決めつけて、「戦う」という表現を使わない医療。
人間の『自然治癒力」を最犬限に高める医療。からだに暴力的な治療はやめてほしい。
難病、がんなどの治療成績の向上。
入院している人の心のケア、術後のアフターケアがあまりにも手薄。
ホリスティックなものの見方、考え方を学ぺる場がほしい。
患者の生活習慣、心の持ち方、生き方を含めてトータルに患者を捉えて、なぜ病気になったのか、
どうやったら病気が治るのかをアドバイスしてくれるような医療のあり方を望みます。
西洋医学、東洋医学、どちらがすぐれているとか、一番だとか張り合うのではなく、お互いが自分
たちの医学に足りないもの、欠けているものを相手の医学から謙虚に学ぴ、補い合い、患者に接し
てほしい、患者にとっては治りさえすればどちらでもいいのですから。
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