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1、問われる命
まず、現代社会で課題になっている医療に関する二つの間題を提示したい。
第一の問題は、生命倫理の問題である。今日の先端医療の場では、“いのち"がモノ化され、生命の尊厳牲が失われつつある。そして、それが経済と結び付き、大きなビジネスとして展開され始めた。たとえば、遺伝子の治療や操作、臓器の売買、ヒトヘのホルモン投与による成長の操作、代理母、精子バンク、卵ドナー、凍結受精卵、胎児の脳細胞の利用、さらにはヒト受精卵のクローン化などである。我々は、これらに大きな戸惑いと末恐ろしいものを感じる。人間は生命の神秘にどこまで手をさしはさんでいいのだろうか。.また、自然の摂理をどこまで侵していいのだろうか。
第二の問題は、末期患者における死の受容とそのサポートの問題である。高齢化社会の中で、老いや死をどう受け止めるのか。また、ガンやエイズの患者が、死をとう受容し、死の瞬間までいきいきと生き、いのちの満足をどう実感するかという間題である。死がタブー視される中で病名告知の困難さの問題。そして、末期患者を精榊的な立場でどうサポートするかという問題である。
これらの問題は、単に自然科学的な立場だけでは解決できるものではない。普遭宗教の立場でも考えていかねばならない。西洋の近代科学の行き詰まった問題について、東洋の哲学にそれを超えて行く道が見いだせるかも知れない。これらの同題は、核の問題とともに、人類にとって焦眉の最も大きな問題である。
2、西洋思想の陰り
さて、このような中で西洋の近代科学は、人間を「万物の霊長」とし、それに恩恵を与える科学自体を絶対善とし、イギリスの産業革命以来、進歩、発展、向上を最善として今日の社会を築いた。しかし、その結果、地球は明らかに、減亡の方向をたどりはじめた。それは、人間至上主義、非自然主義の結果である。そして、その中での、生命倫理の基準は、『人格』に与えられた「人権」、あるいは「基本的人権」であった。
従って、「人権」という概念によって裁くということで、問題解決の統一的基準を設定し、運用されてきた。この流れの中で・リピィング・ウイル、自己決定、インフォームド・コンセントといった概念が倫理基準として浸透してきたことは周知のとおりである。しかし、これらの価値観をゆるがしてきたのが、末期医療のQOL、遺伝子治療の「優生思想」、死の再定義などである。結局、人権、習俗、功利(合理主義)がぶつかり合って混乱しているともいえよう。
3、自然法爾(じねんほうに)
このような状態の中で環境倫理では、仏教の共生思想(権尾弁匡の共生の哲学)が注目されはじめた。そこで今、東洋恩想の底流にある自然思想(たとえぱ、仏教の自然法爾や中国思想の無為自然)に上に示した問題の解決の方向をみいだしたい。
「自然法爾」思想の根本原理は、インド2,3世紀の哲学者、ナーガルジュナの「中論」にある。平易にいえば「有無を離れる」という考え方である。親鸞などの日本仏教の核心をなす思想である。つまり、あらゆる価値観を相対化し、それにとらわれず、自然つまり、ありのままに身をゆだねるという考え方である。「あるがまま」(無我)である。(これは何をしてもよいということではない。それは「わがまま」であり、「我」である。)
東洋思想には、基本的に「自然のままに」という考え方がある。大きな自然に対し、それに敬虔(けいけん)
な思いを持ち、それに身をゆだねてゆくという考え方である。大自然に対比して、自已を見つめたとき、有限で、ちっぽけな自己自身が見えて来る。人間の小賢しい知恵で、自然の摂理を侵していいのか。
それよりも、自然の摂理を侵してまで、あるいは他を犠牲にしてまで、自我的欲望を満たそうとするわれわれの在り方をもっと課題にすべきである。自我をどうコントロールするかということである。つまり、自然という概念を倫理の基本概念としたい。
また、末期医療における老いや死の受容も、同様である。老いや死に挑戟するとか、勝つという人があるが、勝つことができるか。人はだれしも、必ず老いて死ぬ。老いや死に挑戦するとか、勝つという発想をするかぎり、老いや死はその人にとって敗北になり、不本意な死でしかない。そうではなく、いかに受容するかという事でなければ、安らかな死にはならない。何も、上手な死に方をすることもいらないではないか。痛いときは痛いといい、苦しい時は苦しいといってありのままに死ねぼいいではないか。そう腹がすわったとき、結果的に安らげのである。それが前'にも述ぺた自然法爾である。善し悪しのものさしを離れたときに結果的に安らげるのである。
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