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東海ホロス           不安と仲良く出来ないかな?
                 竹内 聡 星ヶ丘マタニティー病院内科部長
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 今、世界はどこに向かっているの?文明は進歩しているの?日進月歩、新しい技術や製品が発表され、新たな学説、発見が報道され、書店に行けば、一番良いという方法論を説く書物があふれ、私たちの生活はより良くなっているのだろうか、良い人生だったとほほえんで死ねるだろうか?

明るい未来を保証する技術、より良い解決法を説く情報に反して、現実には不幸な、残虐な、常識では考家られないような事件が頻発しているし、実際に現実を生きる人々は、ますます不安を感じている。その不安につけ込んで、明るい情報が(解決にはならないのに)商売になるというのは本当に皮肉だ。いったい何がどうなってしまったのか?
 
 貧困、病気、災害、犯罪から無垢な一般市民を守るために構築してきたのが近代文明だったはずだ。
ただ、基本の部分では「食うに困らず」「普通の感染症や怪我で命を落とす事もなく」「小規模の災害では住居や命を失うことなく」「道で辻斬りにあったり、道行く時に山賊や強盗にあったり、奴隷にされることもない」、それを十分ととるか不十分と取るかは難しいけれど、最低限のレベルは保証されているのではないか(あくまでも前近代と比較してだけれど)。なのにそれには満足できない我々は。
もっと安心するために、(必要以上に)安全を貯金したくなってしまう生き物なんだと思う。

 本来、対時すべきは「賛困、'病気、災害、犯罪」といった形ではなく、「不安」という形なきものなのだろう。言い換えれぱ「目に見えぬ不安が目に見える形」になったのが貧困、病気、災害、犯罪」であり、その方が分かりやすく共有しやすい。目に見えないものは、集団の中では扱いにくいから。人々が話し合ったり協力し合ったりするには共有できるテーマが必要だ。そして皮肉な事に、不安を減らすための集団行動は「他の人はどうなのか、自分はどう思われているのか」という「集団に対する不安、自我に対する不安」を増やしてしまう。

 そうなれば、初めはよいけれど、時が流れる内にテーマがあいまいになり混同してくる。一緒に不安の解決法を求めていたはずなのに、「言い分が認められない。それは不平等だ。人より安心したい。」などという、本質からずれた個人の間題に陥っていたりする(経験あるでしょ)。そうなると、集団的解決に形をかりた、個々人の利害関係にすりかわってしまうけれど、大義名分があるだけに間題を指摘しにくい。結局、個人の
不安は、内容を変え屈折し、闇の中に沈んでいき、当初とは異なる不安、不満がわいてくる事になる。 まるでモグラたたき状態だ(どっかの大国みたいだね)。

 人間が死すべき存在、生物としての限界に規定された存在である以上、その先はどうあがいたって未知の世界であり、不安はなくなることはない。どこで折り合いをつけるかという事であって、決して不安材料をすべて排除することではない(それは不可能だから)。多くの精神的間題の根底には、この折り合いのつき難さが存在するわけだ。

 他の動植物は(その能力がないので)、いかなる環境の中でも文句を言わず(言えずだね)折り合いをつけざるを得ない。そして、折り合いが付かなくなったものは淘汰されていく(自然は厳しい!)。皮肉な事に、人類は恐れや不安から逃れるために大脳皮質が進化し、想像力を獲得したことにより、不安まで獲得してしまった(リンゴの実を食べたから?)。その想像力は、健全に機能すれぱ自分の限界との折り合いをつける文化を生み出すけれど、こじらせると不安、強迫観念、妄想に至ってしまう。科学がマッドサイエンスになり、宗教がカルトになるように。

 たいてい、そういう人間の知恵は不備があるので、歴史の節目節目で、ボロをだして大きな変革が起こり、方針の見直しが(いやが上にも)なされてきた。そういった、歴史の流れ、「諾行無常」「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という様を(これは日本人の感性だけど)、太極の図で象徴的に表現しようとしたのだろう。

 自分たちの悲しく愚かな歴史を、子孫にはくり返してほしくなくて、「万物は流転するんだよ。用はバランスだ。あんまり執着してはダメだよ」という思いを伝えたかったんだろう。

 二つの世界大戦を経験してからは、高度に科学化された西洋文明国同士の壊滅的な争いは小休止状態なので、「貧困、病気、災害、犯罪」という不安は、ある程度コントロールされそうにみえた(短い期間だったけど)。でもそれすら、バランスの取れた不安解決では全くなかったのだろう。

我々が安心するために、世界を二極化して、目に見えない所の矛眉を増大させ、緒局、不安の種を大きくしてしまったのだから。丁度良いってどういうことなのだろう。どのくらいのレベルなら、世界がそこそこバランスを保ったまま、最低限の不安から身を守れるのだろう。

 そして、その場合の最低限ってどのくらいのことなんだ? それに我々は我慢できるのか(ちょっと前まで、暑い夏の夜も蚊帳に入って扇風機だけで寝ていた人間が、クーラーがないと寝られないと怒っている有様でさ)。決定的にまずいのは、それでも自分だけの不安を減らそうとして(その結果どういうしわ寄せがあるか考えず、結局自分に返ってくるのだけれど)、白黒はっきりさせる方向に集団ヒステリーの様にぱく進していることだろう。
それが集団を利するためだという錯覚が事態を複雑にしている。他の分野のことは素人の私が口出すのは(いろいろな事情があるだろうから)やめて、医療のことに絞って例をあげてみる。

 どんな医療も当然、「すべての人の幸せのために」という大義名分がある。すべての人だから、一人の人を助けるためにも全力でなければならない。今の技術では治療困難な病気に対しては、早期発見、新薬開発、特擦技術開発(ナノテクノロジー、新たな画像技術、分子生物学、DNA解析などなど)の開発が不可欠ということだ。「でも待てよ、そんな技術のほとんどは自分には一生無関係だぞ。でもな自分は大丈夫でも自分の家族、親戚、友人が関係するかも・・。

現に今テレビで見ている、このかわいそうな子供は放っておくわけにはいかんだろう。それに自分だって、将来はどうなるかわからんじゃん」というわけで、それ以上は一懸考することなく無条件の良き事として受け容れていく。それが悪い事だとは思わないけれど、そうする事で、限界を受け容れる力=不安耐性が益々低下していくってことは予想していなかったわけだ。

自分の中で折り合いをつけるのではなく、もっと何とかできる方法を求め、それが出.来ないのは医療が撃いからだと錯覚してしまう。

初めに書いたように、人閻は元々限界のある存在だ。限界を延ばしたとて、最終到達点は延ばせない(らしい)。かといって冷凍保存して、未来の科学に期待するのも・・そりゃ科学でなくて新興宗教だね、もはや。となると、人は永遠の命がほしいわけではなくて、不安から逃れたい、そして安心して死にたいってことなんだろう。それは、科学技術という論理的な課題ではなくて、安心、納得という情緒的な課題なんだと思う。

科学は「勝ち方」を教えるが、宗教は「負け方」を教えるって言葉が好きだ。父性と母性って感じだ。何とかするカを父性が教え、何ともならないことに耐えるカを母性が育む。よりよい生活水準を獲得するのは論理的な世界だけれど、死は情緒的なもので理屈じゃない。今じゃ死も論理的に扱ってしまっているけれど、本当はそうではないことを誰もが心の中で分かっている。環境間題なんかと一緒で、臭いものにはフタをして、先延ばしにして、今すぐできる事には目を向けないようにする。そもそも安心ってのは理屈はめちゃくちゃでもいいから、これでいいっていう実感だ。

情熱的な時はそう感じるでしょ。祭りや恋愛や感動の瞬聞、何がなんだかわからんが、すべてOKだっるて、そういった情熱とかヒロイズムとか、大垣なもののために燃え尽きたっていう実感なんじゃないか。なのに、世間が与えるのは冷えた情報ばっかりだ。情報をどれだけ増やして、論理を組み立て、それの客観的な正しさを主張しても、心の奥底は納得しない。みんな納得したい、あるいは情熱を感じたいんだろう。

冷えた安心もどきを欲しいわけじゃない。むしろめちゃくちゃの発想でもいいから、熱を欲しいんだろう。生きている実感、意味のある死に方、確かに生きたという証、そういう熱は冷めた情報をいくら集めても得られない。
だから思う・うつろに上を眺めてよい情報が降ってくるのを待ったり、必死になって安心させくれる情報を求めたりするのはやめて、日常を大事にしよう。

目常はつまらない。でも、そこにこそリアルなものがある。退屈な一日は無駄な一日じゃない、退屈な一日は情熱的な瞬間へのプロセスだ。退屈な一日一日を、道を逸れず、精一杯生きていく「日常という行(ぎょう)」は、きっと最後の瞬間に自分はこれで良かったという最高の贈り物をくれると信じることにした、私は(これは信仰かね?)。
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