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不老不死は、古代から人々の最大の関心事でした。たくさんあるヨーガの体位法も、例外なく心身の健巌を増進するために練りあげられています。
しかし、人々の関心とはかかわりなく、私たちはゆっくりとほんの少しずつ老い'ていきます。皮膚が、筋肉が、歯が、骨が、後退しながら私たちを離れていきます。それらが離れていくのを実感したときに、それまで彼らをぞんざいに扱ってきたことなど忘れて、私たちは妙にそれらを失うことに執着と後悔を感じてしまうのがふつうです。
いま、目のまえの小さなテーブルヤシの鉢をながめています。買ってきてからいくらもたたないのに、あたらしい芽がつぎからつぎへと出てきます。あたらしい芽は、かならず先輩の葉を追いこして成長していきます。背もたかく、枝から対になってのびる葉の数もふえていきます。なんだか、世代の交替をみているような気がして、70歳代にはいった私には、すこしばかりショックも感じる光最です。
かく言う私は、とてもおおきな錯覚を抱いています。かがやける錯覚といってもいいような、これまで経験してきた明るさや廿さの真っ只中に、いまだに浸かっていると愚かにも錯覚しているのです。そして、もっと心ゆたかになりたいとか、もっと知恵を得たいとか、まだ何かできそうだとか、しばしば思います。
そんなわけで、錯覚というと後ろ向きの思いのようですが、この錯覚がなかなかの曲者だと気づきます。錯覚しながら生に対する思いを強靭にしていくからです。加齢のせいだけとはかぎらず、襲ってきた精神的肉体的な苦痛に克つことは、このうえなく困難なことです。それが長びけば長びくほど、困難さは倍増します。そんなとき、誰しも困難にうち克ちたいとか、逃れたいとか願うはずです。そして、結果選ぶ方法はさまざまでしよう。
私は、克己というような厳しい書葉には竦れを感じます。はげしい苦痛には、頑固な抵抗より、接近し委ねることがいいように思います。息を吐いて、力をぬいて、まるで温かく穏やかなものにふれるように、委ねられたらいいと願っています。
人が存在するということは、言うまでもなく単に物体があるということではありません。「可能性としてあるか」とか「能カとしてあるか」とか、「望ましきものは」「目的は」「価値蟹は」などの問いかけも、人にむかって投げかけられるものです。
ここで、さきほどの錯覚が先導役をはたしてくれるように恩います。静かでおだやかな錯覚のなかで、変化し手にいれられるものを、愚かなことだと他人が笑えるでしょうか。
青と赤は違う色ですが、どちらがいいとか悪いとかではないし、もちろん優劣などありません。老人が青年より劣るものではない、ということと同じだと思います。ただ、老人がそっくり青年の模倣をしようとしたとき、醜く品位のないものになるのです。
ながい年月をかけて洗い磨かれた戸板は木目がはっきり立っていますが、木目の聞を埋める余分なものがなくなって、必要なものだけが際だったような爽やかさを感じます。星霜を経た老年とは、そんなくっきりとした時聞のように思います。
老人の存在や生きかたを肯定的に考えるとき、これは、宗教家が慰めを説いているのとは違います。私たちは、かつて経験したことごとを、活カの減ったいま、以前とはちがった関心で心地よくみることができるということを識り、真実その価値に驚嘆するのです。なんにしても、これらを生みだすものはイメージです。
イメージというと、なにやらかたちのないふわついたものを想像しがちですが、あにはからんや、それは人の存在全体としての体験であり、その存在とは、いま生きている身体のことを指すのです。イメージは、生きている身体の体験とは切っても切れないものだということができるようです。年齢をかさねた身体は、ゆたかなイメージの宝庫です。
ところで、たいていの人が、ひごろ想起しようとするイメージにはそれ自身に自律性があり、それは自我が気ままにつくりあげるようなものではないことを識っているのではないでしょうか。まるで、偉大な送り手がどこかから送ってくるような感じさえすることがあります。したがって、想起されたものにはつよい個有性がついてきます。そんなわけで、ひとりの人にとっては重要なことが、ほかの人にはなんとも無意味だということもあります。
そこで、イメージはたましいの生みだすものと書いてもまちがいではなくなります。そして、たましいは自ら生みだしたものに元気づけられ活性化するのです。これを、一種宗教観めいた一面をもつというひともあるかもしれませんが、もともと日本人は俗なるもののなかに宗教性を見だそうとする傾向があり、ひとびと一般的には、聖と世俗が矛層し抗争するものではないという空気が濃いのではないでしょうか。
ヨーガの発祥地インドは、8割以上が多神教を信じるヒンドゥー教徒ですが、彼らは、男も女も、屋内でも屋外でも、身体全体を大地に投げだすダイナミックな祈りをささげます。これは、神々を、意識と身体のすべてで把握しようとするからではないでしょうか。ダイナミックな祈りはひとびとの意識の表層にも深層にもかかわっていって、もはや神々は彼らのなかで顕現しているのではないかと思われます。
ところで、私たちが坐禅をしていると、いろいろなイメージが沸いてきます。いわゆる魔境といわれるものです。そんなとき、沸いたイメージにこだわらず、まず自分の姿勢をかえりみるようにします.緩み崩れた自身の姿勢に気づくはずです、瞑想を毒するものの第一に坐相の不正があげられますが、まったくそのとおりです。まず坐りなおせば、即座に魔境のたぐいは消滅します。
人間は、ライフサイクルの節目でさまざまな体験をします。、なかでももっとも重いものとして、死と再生の体験があるでしょう。この体験はとても内的な体験で、イメージとしての死と再生をどのように生きるかということです。
昔はそれぞれの村や地域の連帯において、さまざまな死と再生のイニシェーションを行なってきましたが、現代はそのようなしきたりも消えて、各人がそれぞれにふさわしい死と再生のイニシエーションを自身に課していかなければならない状態です。しかし、それがうまくいかない悲しさ辛さが、このごろことに目立つように、思います。
ところでイメージをえがくということにおいて、まったく異なるふたつの方法があります。主観的体験が基礎になっているものと、観察者として個人に無関係で普遍的なものを見出そうとする方法です。
ふつう普遍的にみえることは、とても科学的で、効粟的なものにとられがちです。西洋医学は拡大鏡を向けるまでもなく、古い癒しの方法やシャーマニズムの影がちらつく方法を寄せつけないものをもっています。あかるい兆しをそこにみることができるのです。とは言え、多くの人々が、科学的治療とともに'古い癒しの方法にひかれているのも事実です。,どちらにも真実があります。たいせつなことは、偽の科学や、偽の宗教や、偽の癒しを闊歩させてはならないということです。
公平精確に観る目と、きびしい視線を怖れない姿勢を失わないことが、いちぱんでしょう。
老いに話をもどします。ライフサイクルを考えるとき、死をどう受けとめるかも含めて、イメージはとても重大です。東洋のライフサイクルのイメジは円環です。私たちは、いかなるときも生への呼びかけを終わることはないのです。
老年は、円環のなかのひとっの部分であり、ほかの部分と同じように、特有の喜びと特有の苦悩をもっています。したがって、老年を厭うだけの人は、円環のなかの一部分の品格のある代表者とはなり得ないということになります。
自身の年代の価値と意義を肯定し、背すじを起こして、自身の人生に真っ正面から向きあっていきたいものだと思います。
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